BlogにあってTwitterにないもの

今朝ほど、おなかが痛くてトイレにこもっていたときにふと思ったこと。昔の個人サイトって「ほにゃらら’s ROOM」とか「ほにゃらら’s World」っていう名前が妙に多かったな、と。そう、名前。TwitterにはIDやURLはあっても名前や場所が存在しないのだ。観念的な話だけど。

インターネットの登場により個人が容易に情報発信主体となり得た今日、WEBサイトというメディアを手に入れた人間はそのIPアドレスやドメインといった架空の「場所」をまるで我が家や自身のアトリエのように捕らえ世界と向き合っていた。掲示板は「ラウンジ」などと名づけられ、文字通り訪問者との交流に利用された。現実社会を模されて作り上げられたその「場所」では当然のことながら出会いがあったりするし、揉め事も起きたりした。

個人が管理する掲示板では、その是非はともかくとして「人の家に土足で上がりこんできてなんだよ」とか「訪問するときはトップページからお願いします。あなただって友だちの家に行くときに勝手口から入らないでしょう」みたいな発言が至るところで見かけられたし、WEBサイトを持つにあたってのメンタリティは大げさに言えばそういう感じだった。自分の家であり、同じく他人の家なのである。そして、”site”の名の通り、場所、なのである。

対してTwitter。「一国一城の主感」があまりにも希薄である。イマ風に言えばノマド的メディアであり、ホームレス的コミュニケーションプラットフォーム。「場所」がないから第三者は押しかけて文句も言えないし、戸籍(ID)の管理もゆるいから好きなときに名前も変えられる。そして何よりも、自分が何者であるかをシンボリックに示すであろう「名前」がない。個人のページの「名前」を示すタイトルタグも

TadafusaHonda / 本多忠房 (tadafusahonda) on Twitter
http://twitter.com/tadafusahonda

こんな感じ。”on Twitter”。そんなんわかってる。今見てるし。「インターネットなう」って言ってるのと変わらない、つまり何の意味もない。それに、Twitterを(対象が個人でもサービス全体としても)「WEBサイト」だと捕らえている人はいないだろう。

WEBの構造的な変化を捉えて「リンク構造からソーシャルグラフへ」みたいな言説があふれ、さまざまな”Connect”によって大規模なメディアや企業サイトがグラフに取り込まれていく、という主張は間違いない。ただ、トラフィックの総量はともあれ、情報発信主体の多くは個人なのだ。個人を取り巻く環境が変わらないことには何も始まらない。大規模なサイトであっても、そこに訪問するログは個人によってもたらされるのだから。そして、個人を取り巻くWEBの姿は、大きく、確実に変わっている。

「名前」や「場所」を奪われ、ネットワーク上に浮かぶダイナミックなノードのひとつになった個人。主としてXMLの集積体となることを選択し自由を手に入れたのと引き換えに、失った何かを比べて少し物悲しい、秋が始まる気配のない9月1日の朝なのでした。